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日々の出来事を思うままに、自分の言葉で…

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高校時代の思い出(3)

いつまで経っても劣等感が消えないまま迎えた3年生。私は出来ない、ダメな生徒とずっと思っていました。そこから抜け出すことはありませんでした。大学受験という大きな節目に向けて、「先を考えて動く」ということを少しだけ覚えた気がします。

みんなは、親御さんからの理解もあり、行きたい大学へ、という過程が大半でした。私は、大反対されたまま。音大さえ反対なのに、東京なんてとんでもない。そんな感じでした。もちろん、そういう友達もいましたが、どちらかと言えば、少数だったと思います。

私が声楽を始めたのは、合唱人として、貢献できる人になりたいという想いがあり、そのためには個の実力を上げる必要があると考えたからです。ちゃんと自分の声をコントロールできる力を持ちたかった。それくらい合唱が好きでした。

ある先輩から「武蔵野には佐久間哲也先生っていう、すごい合唱の先生がいるんだよ」と伺い、俄然憧れが…。そして、どうせ歌の世界に進むなら、東京で勝負したい、という無謀な想いがありました。無謀です。音高の中でさえ埋もれているのに、何を考えていたのでしょう(笑)でも、声楽の先生も、ピアノの先生も武蔵野出身でしたので、なんとなく、そちらの方へ気持ちが傾いていたのも事実です。

そう、同期にはとっても上手い子が3名いました。一人はもう大人の声。音域も広く、とうてい敵わない相手。一人はとっても清らかな声で万人に好かれる声。ビジュアル的にもかわいい(笑)。もう一人はメゾのような深い声で声量もあり頭の良い人。彼女が2年生のとき特待生になった友達です。

この3人にはどうやっても敵いませんでした。

私は定期演奏会には乗れなかったし、歌ではダメだなーって思うようになりました。でも合唱への想いは捨てきれなかったし、声はまだまだ変わるし、と基本ネガティヴな私にしては、かなり前向きに考えていました。

3年生になってから、現在はお友達としてお付き合いさせていただいている、尊敬する声楽家、小畑佳子先生が音高に赴任して来られました。実際親しくお話をさせて頂いたのは、私が広島に帰ってからしばらく経ってのことなので、ここ10年くらいではないかと思います。それはそれは恐れ多いと思うほど素晴らしい方なので…。

その小畑先生が、私が歌った試験曲を覚えていて下さいました。「さくら横ちょうと、Stizzoso歌ったよね」って。嬉しかったです。そうなんです。その頃から、歌の方向が少しずつ定まり、体型とは反比例の細い声と響く声を生かした歌を歌うようになりました。

夏休みには、武蔵野の夏期講習へ行き、その前後から、大学の先生に師事するようになりました。大学の先生が名古屋でもレッスンされていたので、その時に、名古屋までレッスンに伺っていました。親は、通わせてくれてはいましたが、反対していました。どうせ通用しないから諦めるだろうと思ったのだと思います。

ほんっとにしんどかったです。誰からも応援されなくて(笑)。泣きながら練習したこともあります。その頃から、誰にも相談というものをしなくなりました。分かってもらえないと思ったし、相談したところで、結局は自分で決めなければならないからです。自分の人生だから、人から見て間違いだと思っても、自分が幸せになれると信じた方向へ進むべきだと思っていました。…恐ろしい思い込みです(笑)ものすごい迷惑な人です(笑)でも、相談された側の負担を思うと、相談なんて出来ないのです。迷惑なだけですから。だったら、自分で考えて、自分で結論を出して、頑張ろうと思う人になってしまいました。

ただ、ピアノの先生だけは、応援して下さって、「東京に行け。武蔵野、行けるように頑張れ。親は説得しちゃる。その代わり、勉強も頑張れ。そしたらあとは僕に任せとけばいい」と。

…その通りでした。面談の度に、これまで一度も、ちょこっとでも褒めてくれたことがない先生が(笑)どうしたの?というほど褒めて下さり、この子は放り出したほうがいい、頑張れる子だから、と推して下さいました。仰ったことを覆すことは一度もありませんでした。その想いに応えなければ、と、俄然頑張る単純な私。あの頃は素直でした…。

その時も、音高の先生方が、質問に行ったら「よっしゃ!」とすぐ席を立って教えて下さり、下校時間を過ぎても、とことん教えて下さいました。

やり切った気がしています。今思えば、もっと出来たとは思いますが、当時の私の精神力、体力を考えると、限界まで頑張ったのではと思います。だって、元は三日坊主ですもの…。それも相当な。

潰しが利かない、と言われました。音高に入る時。でも、そんなのやってみないと分からない。やる前から言い訳して諦める人生なんて絶対に嫌だ、と思いました。

やる前に損得考えて諦めるより、やってだめだったほうが納得できる。

人のせいにしたくなかったんです。親に反対されたから、私は音楽を諦めた、と言い続ける人生にしたくなかった。相当なわがままでしたし、親にはたくさん迷惑をかけていますが、「してくれなかった」と思いながら生きるのは、辛いですから。その代わり、必死に頑張る、ことだけは自分との約束として果たして行こうと決めたのです。

そんな中で、人と比べても仕方がないと思うようになりました。上手い人は上手い。でも、私にも歌ってもいい歌があるはずだから、地道に歌っていこうと思うようになり、卒業試験で、やっと少し上に行くことができました。でも、僅差だったと聞いています。卒業演奏会にも出演させて頂きました。でも、そこで私は大失敗をするのです(笑)。傍目にはそうでもないかもしれませんが、私にとってはショックな出来事でした。ことごとく高音が外れて…あらら〜な歌に(笑)悔しかったです。

舞台袖に下がって言った言葉「やってしまったことは消えん。…受験頑張る!」は、しばらく先生方の間で笑い話として語られていました。泣かずに宣言してたね、たくましくなったね、って。泣き虫でしたからね。昔は。

でも、すごく良い経験をさせて頂きました。舞台は水物だということ。そして、取り返しがつかないということ。だからこそ、もう無理、と思うまで準備が必要なのだと。そこから本当に気合いが入りました。

そして、いよいよ受験。地元の音大と、武蔵野を受験しました。地元の音大の合格を頂いて、武蔵野へ。出発当日、音高から電話があり(当時はまだ黒電話ですよ)、卒業式で答辞を読むことが決まったので、受験中ではあるけど、答辞を書いてきてね、というものでした。原稿用紙を持って、受験へ(笑)

新曲視唱は、音高でやっていることに比べたら比較的歌いやすくて無事クリアの手応え。

聴音は、間違えた気がしなかったです…。音高で鍛えられていたから。

音楽理論、わからない問題は、あまりなかったように記憶しています。

ピアノ、普段通り、弾けました。

と、ここまでは順調な感じです。あくまでも感覚として、です。実際の点数は不明です(笑)思い込みってありますからね。受かりたい一心だったので、言い聞かせていました。大丈夫って(笑)

さて。ここからが問題でした。

声楽、普段通り、歌いました。が、みんな、上手すぎる…。なんだこれは、と思いました。とにかく、ピンキリではありましたが、上手い人のレベルが…違いすぎる。

そして、最大の難関は、国語と英語。さっぱりでした。出来た感じが全くしない。音大なのに、学科で落ちるとか、情けない…と思いつつ、落ちたと思って、受験最終日、江古田校舎のまわりを泣きながら歩いて一周して帰りました。一浪させてもらえるかなーとか考えて。

答辞なんて、ぐだぐだです。書けるはずもなく、広島に帰ってからすぐ職員室へ行ったのですが「お前らしくない。つまらん。書き直せ」と言われ、書き直しました。そうこうしているうちに合格発表の日。当時は、姉が文京区で研修中だったので、姉に見に行ってもらいました。

奇跡的に合格…。嬉しかったです。本当に、本当に嬉しかったです。

答辞も2回書き直して(笑)やっとのことで「お前らしい。これでいい。これがいい。」と言って頂き、実は、今でもその原稿が手元に有ります。それを読み返すと、ああ「私」は、音高で形成されたのだと確信します。

諦めない先生がいて下さったこと。とことん付き合って教えて下さった先生。ダメな生徒と決めてしまわず「お前は知らないだけ。知ればみんなに追いつける。大丈夫」と言って下さったこと。頑張ると信じて下さったこと。結果が出なければ、やり方を見直す勇気を持つこと。

全てが今の私に生かされています。教える仕事に就いて、更に、私の信念にもなっています。劣等生だったから、かもしれないなと思っています。分からない、ということが、分かるというか…。未だに劣等感はあります。消えないです、そんな簡単には。でも、すごく感謝しています。音高の先生方のおかげだと思っています。

皆、可能性の塊なんです。生きている限り、可能性の塊。教える側が決して諦めてはいけないのです。全て、音高のおかげなのです。感謝しかありません。

本当に素晴らしい学校でした。学校へ行くのが楽しかったです。とにかく、毎日が充実していて、練習しまくったこと、勉強しまくったことが忘れられません。休日が悲しかったほど。三日坊主の私が、頑張るようになったことも、音高のおかげです。それは、音楽だったから、頑張れたのだと思います。わがままを押し通したけれど、認めてくれて、結局は応援してくれた両親、姉に心から感謝しています。

私のピアノの先生が、我々の入学時に仰った言葉が忘れられません。

「僕らは、音楽高校という舞台を与えます。存分に輝いて下さい。どんな協力も惜しみません。この舞台を生かし切って、素晴らしい人生を歩んで下さい」

その通りの先生方でした。個性を認める教育現場、だったと思います。

休校となってしまった母校への想いは、並々ならぬものがあります。その想いは別途綴りますが、音高がいかに素晴らしい学校だったか、少しでも書き残したいと思っています。

もう一度、声高に言います。

広島音楽高等学校は素晴らしい学校でした。

多くの生徒が育ち、救われ、音楽の楽しさと厳しさを学びました。あの校歌の通りです。不本意な終わり方ではありますが、結果は、卒業生が出していきます。これから、活躍する卒業生達がたくさん出てくると思います。誇り高く、勤勉に精進して行きたいと思っています。

音高を卒業した者として、愛する母校に帰らせて頂き、現場で教えていた者として、母校愛は消えることはありません。私なりの母校への感謝を示しつつ、私の気持ちのまま、母校を大事にしていきたいと思います。

教えて下さった先生方には本当に感謝しています。わがままで、生意気な生徒でしたが、先生方のおかげで、なんとかこうして音楽界の片隅で頑張れています。謙虚に地道に頑張ります。まだまだ志半ばです。

ひたむきに…一心に、頑張ります。

そして、大変な逆境の中、在籍していた卒業生達を最後まで力の限りご指導され、楽しい思い出をたくさん作って下さり、生徒達が笑顔でいられる環境を整えて下さった先生方に、心からの敬意と感謝を申し上げます。

広島音楽高等学校は、本当に、本当に、素晴らしい学校でした。

高校時代の思い出(2)

劣等感の中で過ごした高校1年生。来る学校を間違えたかなーと思ったりしました。歌は趣味にしておけば良かったかなーとか。

そんな中、なんとなく2年生になり…朝のお掃除時間に、友達が担任に呼び止められました。「あなた、成績優秀だったから、2年生は特待生で授業料免除になるから、あとで校長室に」と。なに?そんな制度があるの?知らないし…と思ったら、担任が「あなたも1年間頑張れば特待生になれるかもよ。年間2名まで。でも今年は1名だけだったけどね」と。

私って、勉強はこれまでしたことがない(笑)から、すれば少しはチャンスがあるかも、と考えました。当時の成績は多分4位〜7位をうろうろしていたと記憶しています。単純な私は、特待生になった彼女と勉強を開始しました。試験1週間前になったら、試験範囲が発表されるので、スケジュールを立て、土日は互いの家に行って勉強会までしました。

実は…音高は、数1までしかありません。その分、音楽教科をやらなければなりません。私は、数学が大嫌い…。2年生になってからは、なんとその数学が無くなるではないですか!天国です!当然、試験の平均点が上がります。半額セールのような点数が無くなるのですから。結果、1学期の中間テストで見たことがない成績が。今まで勉強なんてしたことがなかったんです…。なので、勉強したら、結果が出る、ということを初めて知ったのです。高校2年にして、…遅っ!

でもそこで、さすがだなと今思うのは、ピアノの先生です。「一回きりなら誰でも取れる。大事なのは、継続。お前、出来るか?やれるものならやってみろ。」と。冷静に仰ったのです。素直に、そうだなー。一回だけなら、まぐれってこともあるから。と思いました。

「よし、やってみよう」

そこから、少しずつ頑張ることを知りました。継続する難しさや大切さ。なにしろ、三日坊主の私には、頑張ることは珍しいことなのです。頑張ったことがないから。でも、授業が済んで、少しでもわからないことがあったら、放課後職員室に詰めました。先生も、どんなに忙しくても手を止めて、職員室や図書室で、マンツーマンで教えて下さいました。これまで勉強をしたことがない私は基礎が抜け落ちており、勘だけで生きてきたので(笑)「分かるようになる」ことがおもしろくなり、勉強って悪くないな、意味があるんだなと思いました。そう、初めて(笑)。

そして、先輩方が本当によく練習する学年だったので、それに感化されて、私も朝7時には登校し、7時半までは宿題や予習復習をして、音出し可能な7時半にはピアノを練習。8時からホームルームが始まる8時25分までは歌の練習を毎日しました。毎日…。もちろん、放課後も。有料でレッスン室を借りてとことん練習しました。この努力をしない私が(笑)、三日坊主の私が毎日!

人って変われるものですね。びっくりしました。

でも、楽しかったんです。努力する、ということが。声も少しずつ人並みの声がようやく出てくるようになりましたし、音楽大学に、できれば東京の大学に進学したいという目標が出来ました。

ただ、両親の反対が…。ならば、特待生を取って、認めてもらうしかない。そう思いました。

負けず嫌いの本質をいち早く見抜き、うまーく導いて下さったピアノの先生の思惑にまんまと乗り、三日坊主な私は、1年かけて、頑張ることを覚えました。

2年生が終わる頃、数学が無くなったおかげで、私はなんとか3年生になったとき、念願の特待生となりました。でも、分かっています。数学があったら、きっと無理だっただろうことは(笑)ええ、分かってますとも。だって、数字、大っ嫌いなんだもん。珠算も暗算も1級まで取ってるのにね。数字を見ると目眩がするんだもん。

ただ、大きな問題がひとつ。声楽科は当時12名。私はいつも4位でした。どうしても3人、抜けなかったんです。この3人が上手すぎた!どうやっても追いつけなくて、いつもいつも、撃沈していました。ひっそり一人で何度も泣きました。

でも、少しずつ変わりつつあった私。

負けず嫌いの♡に、火がついたのでした…。

続く…。

高校時代の思い出(1)

見真学園広島音楽高等学校。今春休校となりました。1949年に創立。その事実を受け止めるには、あまりにショックで。大好きだった音高への想いを残そうと思います。長くなるので(笑)何回かに分けます。

8歳から児童合唱団で歌い、「歌うことが好きな人を増やしたい。そのためには、早い時期からの正しい音楽教育を受ける必要がある」と考え、高校受験時、周囲の猛反対を受けつつ受験したのが、広島音楽高等学校。歩いて通えるところ(片道40分)にあるのだから、行こう。という実に単純な動機。中学の先生方からは一斉に猛反対。国公立に進学して貰わないと困るという意味不明の理由。徹底して、抵抗しました。無視、です(笑)。恐ろしい中学生だ。

親から反対されるのは当たり前。私は何をしても続かない三日坊主の子供でした。唯一続いたのは合唱団で歌うこと。でも、慢性扁桃炎持ちで、体が弱かった私は、それさえ休みがちでした。体力、気力、実力、全て音高では無理、と判断した両親の反対は、ものすごかったです。親族、ご近所さえ、大反対。でも、貫きました。…私、わがままなので。

入学当初、歌うことが好き、というだけで受験したのはおそらく私だけ。その他の生徒は、みんな小さいころからきちんと音楽教育を受けていて、ドイツ音名は当たり前に言える人ばかりでした。私はそんなことは一切知らず。完全な劣等生。聴音もト音記号を書く程度で、調号が先なのか、拍子記号が先なのか、それさえ分からず。…よく入れたなと思います。

声楽の先生には、なかなか名前を覚えて頂けないほどの印象の薄い生徒。ところが、ピアノの先生は、なぜかピアノ主任。鬼と言われる(笑)先生でした。ピアノ科専門の生徒しかいないような先生。ある日この先生が、レッスン室で歌う私を発見。「この程度じゃ、どこの大学にも入れない。ピアノを鍛えて、短大の補欠にでもなんとか合格するようにしなければ」と思われたそうです。

そこからは猛特訓。まず、指の基礎練習の「ハノン」という教則本だけ持ってくるように言われ、当時習っていたツェルニー、バッハ、ソナタの本は捨てろと言われました(笑)。そこからはひたすら、指練習のレッスン。音階を4オクターヴを2往復する「スケール」のみ。この時に、根本的に何も理解していない私のために、特別な課題が。

スケールを弾く前に、調号、音階(短調の場合は旋律短音階、和声短音階も)をドイツ音名で言い、カデンツもまたドイツ音名で言って、それが正解だったら弾く…ということを繰り返しました。そのうち、平行調、同主調、属調、下属調、同主調平行調…などなど課題を出されながら、全調をひたすら弾くという1学期を過ごしました。嫌で嫌でたまらなかったけれど、それは「出来ない、分からない」から嫌だったのです。でも、1学期の実技試験の直前、試験曲を決めるのに「受験したときの曲を弾いて」と言われ、弾いてみたら、指が違う人の指のように動いて…先生の意図を理解し、ついていこうと思いました。夏休みはアルペジオのみ。そのホームレッスンにも通いました。そのおかげで、音楽理論が少しずつ分かるようになり、ドイツ音名にも抵抗がなくなり、少しずつ、みんなについていかれるようになりました。

歌は相変わらずでしたが、1年生の終わりには、聴音で満点を取れるようになり、能力別クラスでやっとAクラスに上がれました。それまでずっとBクラス。入学時はCクラスでも良かったのですが、たまたま3つくらい音が合っていたので、Bクラスになったとか…。うう。それくらい取れなかったのです。このときの楽譜が実はひどかった。ほとんどリズムがわからない。音の玉だけ、なんとなく配置していました(笑)今考えると恐ろしい。よく書いたと思いますが、何か書かないとと思って、抵抗してみたのだと思います。

聴音が取れない、とピアノの先生に言ったら「お前は楽譜が理解できていない。読めるくせに分かっていない。ただ、音は当てられる。歌っている曲を楽譜に書けるか?書けないなら、書けるまで書け。楽譜の構造がわかれば必ず取れるようになる」と仰って、その通りにしました。そしたら、全然理解できていなかったことが分かって、すごい先生だなーって。

何冊、音楽ノートを使ったか分かりません。そのうち、聴音でも、勉強方法を見付けて…それからは本当に聴音が好きになり、得意な科目になっていきました。

でもそこに至るまでは、本当に辛い毎日で、退学して他の高校に入り直そうと思ったことさえありました。ほんとに。みんながあまりに優秀で、授業に全く付いて行かれず、泣きながら通学していました。ここで退学したら、みんなから「ほれ見たことか」と言われるなーって。

ただただ、劣等感に包まれ、ダメな私、を思い知らされた1年間。でも、ピアノの先生の熱意(怖さとも言う)に押され、なんとか頑張ってみようと思った1年生でした。


続く…。

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プロフィール

HN:
Shima
性別:
女性
職業:
声楽家/声楽講師
趣味:
ドライブ、料理、美術館めぐり
自己紹介:
広島で活動中の声楽家です。
ホームページもご覧下さい。末永くよろしくお願い致します。
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